エルシャダイ二次創作小説「吟遊詩人と古城の天使」

ピクシブからこっちに持ってきました。
内容は女性向けで、ルシイーです。
ルシフェルが吟遊詩人で、イーノックが囚われの王子様設定の謎パロディーです。
注意書きとしましては、若干ショタノックで、暴力表現がややあります。キャラをつかみ切れていない神話構想キャラがわさわさしてます。

それでもおkおk!という方は追記からどぞー。


吟遊詩人と古城の天使


 霧の立ち込める湖のほぼ中央。小島のように岸から隔絶された狭苦しい陸地にその古城は佇んでいた。
 聞いた話によれば、ここに城が建てられたのは、遥か昔の事だという。今となっては豊かなこの国がかつて小国の一つとして、限られた土地を奪い合う血みどろの争いを繰り返していた時代だ。さすれば、このような人を寄せ付けない鬱蒼とした森の中の、しかも湖の真ん中なんて立地の悪い場所にあることも合点がゆく。
 だが、それも最早昔話と呼んでも問題はないほどの過去に成り下がった。
 今やこの国は大国として数えられる強大な権力を手にいれた。他の小国を捩じ伏せ取り込み、その勢力は滅多なことでは脅かされることなど無いほどである。このような不便な場所にある城など廃棄され取り壊されても全く不思議はないのだ。なのにこの城は朽ちかけの姿を陰気な森に隠して未だに存在し続けている。

「…不思議だな。」

 低く艶のある声が、白い息とともに吐き出された。声の主は凍えてしまいそうな冷気に己の薄い肩を抱いた。
 本来ならば人が住むこともないはずの蔦の絡まる城の窓の向こうに鬼火のような火が揺れている。
 それも他の部分と隔絶された尖塔の頂上の部屋だけだ。
「ラプンツェルとかいう昔話があったが、まるでそれだな。」
 塔ではなくて城の最上階なのだけれど。
 湖の淵ギリギリまで足を進めると、鏡のような湖面が霧の合間に見える。深い青の水面に写るやや色褪せた彼は、少し寒そうに実物を見上げてきた。抜けるように白い肌と濡れた鳥の羽のような艶やかな黒髪。それだけならまるきり色を持たないようだ。しかし、紅玉のような深い瞳が静かに燃えているから、男の容姿はとても華やかで、どんな絵画の題材すらも及びもつかない美しさだった。彼はルシフェル。伝説、伝承を歌って歩く吟遊詩人だ。
 彼の評判は見た目と声の美しさ、知識の豊富さも手伝って、渡り歩くどの街どの国に置いても群を抜いて高い。
 使いふるされた英雄の物語や神々の恋歌などはもう歌い飽きてしまったルシフェルは常に新しい物語や伝説を求めた。或いは、語られる事を許されなかった物語を拾い集めた。
 そして、それを少し色付けし、或いは原題とした詩を歌い上げる。人々はいつも耳に新しい神話の時代の詩を求めているのだ。ルシフェルの紡ぐ物語はそうしたもの達をたいそう喜ばせた。
 今、彼がこんな薄気味の悪い城を前にしているのは首都で耳にした噂と旺盛な好奇心が原因だった。

『首都の北にある森に立ち入ってはいけない。彼処には天使が幽閉されている。もしも、その姿を見てしまえば神の罰が下る。』

 何処に入ってはいけない。何に近づいてはならない。そんなありきたりな形をとった伝承は数多あるが、これは少し毛色が違う。囚われの天使だなんて妙にロマンチックではないか。
 しかも噂の森は首都からそう遠くない。ちょっと行って帰る体でここまで来たはいいものの、霧のかかった森をうろうろしている間に時間はあっという間に過ぎて行った。
 日は既に暮れかかり、視界はすこぶる悪い。生き物の気配が全くないから、獣に襲われる心配はないのだが、夜霧に濡れるのは勘弁願いたかった。
 仕方なしに朽ちかけた橋を恐る恐るわたり、小島にたどり着く。
 何も城の中に入る必要はないのだ。ちょっと屋根の下を借りるだけで十分だ。
 纏った黒いマントに身をくるむが如何せん冷気が堪える。季節は夏の筈なのになんでここはこんなに冷えるのだろうか?これでは天使も哀れだ。いったいどんな罪を犯せば神聖なその身をこのような場所にやつさなければならないのだろう。
 ルシフェルはぼんやりと、かつて神に逆らって地の底へと落とされた大天使の物語を思い出していた。比較的ポピュラーな物語だし、アレンジも加えやすいためによく詩の題材として取り上げられる。或いは傲慢ゆえに神に成り代わろうとした愚かな天使として語られる。またあるときは、神に愛された御子に嫉妬して反旗を翻したと歌われる。ルシフェル自身は、この物語にはあまり興味がわかなかった。
 錆びた鉄柵の扉を押すと、鍵もかかっていないらしく鈍い音とともに開く。ルシフェルは門の中へと音もなく入り込んでいった。



 鉄の柵どころか、城の扉まで簡単に開いてしまうという無用心具合に、やはり先程の灯りは見間違えでここはただの廃墟だろうか、とも考えた。しかし、手持ちの灯りを掲げて辺りを照らすと、埃だらけの通路の中に人が通ったような真新しい跡が延々と続いている。まるで道標のようだ。
 立ち込める空気は淀んでいてかび臭い。手摺は蜘蛛の巣と埃で灰色に変色している。僅かな恐怖心と過大な好奇心に駆り立てられて、ルシフェルは跡を辿っていった。
幾度も階段を登り、廊下に無数に並ぶ扉を何度か開いたが、ノブには埃がたまって、錆び付いて、押せば扉そのものが外れる始末。あるいはノブすら朽ちて、蹴り開けようとすれば孔が開いてしまうこともあった程だ。
 己の呼気の音だけが唯一の生き物の気配。これは本当に人の通った跡なのだろうか?風や雨漏りで、部分的に埃が流されてしまった跡なのではなかろうか?
 そんな疑問すら浮かぶ静寂。
 夜が恐ろしいと思ったことはなかった筈なのに、今ここに蟠る空虚な闇が恐ろしい。
 心音というのはここまで喧しいものだったのか、と生まれて初めて思った。今誰かに声をかけられたら、口から心臓が飛び出すかも知れない。
「ふっへへ。」
 およそあり得ない妄想に我知らず自嘲していた。

 カタン…。

 そんな中に響いた物音。
 情けない程に体は跳ねたが、悲鳴を堪えたのは流石だった。伊達に傲慢で尊大な王族の前で歌ったりはしていない。無駄な肝の太さはある意味誇れることの1つだった。
 それでも、物音の主には気配が伝わってしまったらしい。がた、ごと、と何かの物音がする。
 そして、『わ』とか『ああっ』とかいう慌てたような男の声も聞こえてくる。男、というよりは変声期の子供のような声だ。
 何処から聞こえて来るのかと耳を済ませば、上から降ってくる。見上げれば、既に尖塔部の真下に来たらしく、濁った窓から月明かりが射して壁伝いに螺旋を描く階段が延々と続いているのを照らしている。
 そういえば、今日は嫌気がさすほどに晴れ渡っていて、今夜は満月がよく見えるだろうと観客が言っていたっけ。どうやら、湖の水が霧を低く作り出しているだけで、尖塔に登れば明るい月が拝めそうだ。
 ルシフェルは好奇心に誘われるように階段を登っていった。



 一番上まで登りきると、1つきりの扉が目の前にあった。鉄の扉が黒々として、いままでの仕切りの役目も果たさないそれとは一戦を画している。この中にはなんとしても入れたくないとでも言うようだ。
 隙間から漏れでるのはランプの頼りない灯り。暗闇と月明かりに馴れた瞳ではそれすら眩しいと感じる程だった。中からはがちゃがちゃと耳障りな金属音に混じって、吐息のような、押し殺した泣き声のような声がしている。そのどれもが弱々しくて、恐ろしいとは到底思えなくなってきた。むしろ、この先に何が閉じ込められているのか是非とも見たい。
 思わず扉を押すが、鍵がかかって開かなかった。
「面白くないな。」
 低く呟けば、向こう側から微かな悲鳴が聞こえた。そして、ランプの灯りが消える。ルシフェルは己の灯りを翳しながら、器用にマントの留め金にしていたブローチを外す。針先を鍵穴に差し込み、カチカチと回してやるとあっという間に開く。こんな型の古い鍵なんてあってないようなものだ。
 勝手にこじ開けておいて何だが、怯える相手の部屋に無理矢理押し入るのは趣味ではなかった。一応ノックをしてから扉を開くと、古い紙の匂いが鼻をつく。
「…あ、あ。」
 苦しそうなうめき声がルシフェルに届いた。灯りを翳すと、そこは壁という壁に本棚が納められた部屋だった。円形に近い壁から少し突き出た扉のついた小部屋のようなものが幾つかある。中央に簡素なベッドがあるだけで、他には何もない。
 唯一の開口部である窓は外からみた通り、蔦に覆われている。窓のすぐ外側には鉄製の格子が厳重に取り付けられていた。
 牢獄だ。
 本と鉄格子の牢獄。
 ひゅ、とルシフェルの喉が鳴った。ベッドの上の人影を捉えたからだ。古びたシーツを被って、ガタガタ震えているその人影は、拙いルシフェルの灯りでは闇との境界をうまく区別できなかった。仕方なしに近づけば、さらに頑なに隠れてしまう。石の床に放られたランプに炎を移すと、暖かな光が部屋をゆらりと照らしだした。
「…驚かせてしまったようですね。」
 なるだけ優しい声になるように話しかければ、シーツを握る指からやや力が抜けた。
 おずおず、といった風に布の隙間から覗いた肌は小麦色だった。
「私はルシフェルと申す者にございます。古城の主よ、どうかご無礼お許し下さい。」
 恭しく頭を下げて、優雅な動きで指先を弾くように動かす。パチンという音とともに指先で綻んだのは、ルシフェルの瞳と同じ色の薔薇だった。ご婦人がたならクラリとするような美しい微笑を浮かべると、シーツの隙間から見える翡翠のような瞳が輝いた。
 ガバッとシーツをまくりあげ、ベッドの住人は漸く顔を見せてくれた。こんな陳腐な奇術でも役にたつこともあるらしい、とルシフェルは旅先で出会った名も知らない奇術師にほんの少しだけ感謝した。
「すごい!貴方は魔法使いなのか!本当にいるなんて知らなかった!」
 今時の子供でも言わないような可愛らしい反応に少しだけ照れ臭くなってしまう。声の主はパチパチと小麦色の折れそうな手を叩いていた。
 蜂蜜みたいな色の艶やかな金髪が、ゆるゆると揺れる。翡翠の瞳は金のまつ毛に縁取られて実に鮮やかだ。小麦色の頬が少し色づいて美しい。粗末な衣を着ているが、けして下品な感じはない。寧ろ、あか抜けした整った顔立ちだった。
「天使、か。」
 思わず呟けば、目の前の少年は不思議そうに瞼を閉じたり開いたりしている。
「天使?貴方のことか?」
 あ、と言ってしまってから少年は口を覆った。再び翡翠の瞳を埋めるのは恐怖と絶望の凝り固まった澱だ。
「…私は初めてこの城を訪れたしがない吟遊詩人でございます。残念ながら魔法は使えませんが、詩を歌うことはできます。お望みとあらば、神話創世未来終末、何れの国にも世界にもあなた様をお連れいたしましょう。」
 少年の緊張を和らげようと使い馴れた前口上を述べる。いつもならばここで拍手が鳴って詩がはじまるのだ。
「あ、貴方は兄の部下ではないのですか?」
 震えて掠れた、少しだけ期待を込めた声に、ルシフェルは痛ましいものを見たような心地になる。少なくとも同じ年頃の子どもの言葉にはない重たい響きがあった。察するに、彼がこんなところに閉じ込められている原因はその兄とやらにあるのだろう。
 ふと、どこかで似たような話を聞いた気がした。
「ご安心下さい。私はしがない吟遊詩人。日がな一日詩を歌い暮らす者に御座いますれば、あなた様に害をなそうという気はございません。今宵は夜霧にからかわれてしまって、町に帰り着くことができないのです。どうか、一夜の宿をお与えください。」
 表情筋という表情筋を総動員して優しい笑顔を形作る。それを見て目の前の少年は頬を赤らめた。なかなか可愛らしい表情をする。
「…あの、私はこの城の主ではないのです。どうか、私のことはイーノックとお呼びください、ルシフェル殿。このようなところでよいのであればいくらでも。」
「ならば貴方も私の事をルシフェルと呼ばねばなりませんよ。」
言えばイーノックはクスクスと笑った。体の動きに合わせてカチャカチャと何かが擦れる音がする。目を向けると細い両足首に枷が嵌まっており、その部分が赤黒く切れて血膿が滲んでいた。



 イーノック、という名には聞き覚えがあった。ルシフェルが集めた『語り継ぐ事を許されなかった話』の1つに登場する実在の人物だ。噂話にするにはいささか古いが、昔話とするには真新しい。そして伝説と呼ぶにはあまりに陳腐な話だが。
 イーノックはこの国の現王の腹違いの弟である。歴史上、彼の存在は生まれつき体が弱く、10才になる前に亡くなった、という記述で幕を下ろす。
 しかし、それはあくまで歴史上の話。ここからは、所謂ここだけの話というやつだ。
 現王は実は身分の低い側室の子である。その生まれにひどい劣等感を持っていた現王は王位を約束されようが、正室の産んだ幼い弟の存在を許容することができなかった。父王が亡くなると、早々に正室を罠に嵌めて暗殺し、まだ10にも満たなかった弟を幽閉したのだ。殺さなかった理由はわからないが、どうせ碌な思惑はなかったろう。あるいは捨て駒として使うために生かしておいたのかも知れない。
 これが、ルシフェルが知りうるイーノックという人物に関する情報だった。
 この話だってもう10年程も昔の話だから、イーノック王子はすでに20
代にさしかかる。しかし、目の前の少年はようやっと10代半ばに達したかどうかと言った風体だった。目の前の彼がそのイーノックであるかは定かではなかった。
「ルシフェルど、ルシフェル。詩を聞かせてくれますか?私はここの本を読むばかりで、詩を一度も聞いたことがないのです。吟遊というものはとても華やかで美しいものなのでしょう?」
 きらきらと輝く瞳が実に美しいとルシフェルは思った。こんなに他人を美しいと思う事は初めてで、ほんの少しだけ戸惑いを覚える。
「ならば宿代がわりに昔話を1つ。それでは足りませんでしょうから、貴方の手当などさせていただいてもよろしいですか?」
 懐から軟膏を取り出すと、少年はキョトンとルシフェルを見上げた。なんとも幼い仕草である。
 ベッドの横に座り込み、蓋を捻れば、僅かに薬の苦味とそれを上回る花の香料の甘い香りがふわりと漂う。痛み止の成分も配合された、良く効く薬だった。
「これは、天使が火も持たなかった人間に与えた知恵の1つと伝わる薬なのです。失礼。」
 少年の足に触れると、ひどくおびえた様子を見せる。困ったように少し低い所から笑いかけると俯いてシーツを自らどけた。足首の鎖はベッドの真下の床の上に繋がっているらしい。結構な長さがあるが、恐らく扉には届かぬように作られているのだろう。小麦色の肌に醜い傷ができているのがなんとも惜しい。
「少し染みるかもしれません。」
 軟膏を細い指に取ると、傷口に優しく触れる。
「う、あ、」
 ギクリ、と少年が跳ねた。仕方のないことだ。それでも健気に耐えている。
 ルシフェルの薄い唇から、見事な旋律と選び抜かれて磨きあげられた言葉が滑りでる。
 詩の内容は要約するとこのような感じだ。
 遠い遠い昔、まだ人が火を持たなかった時代。とある天使が空の上から地上を見下ろしていた。人々は寒さに凍えて身を寄せあって暮らしていた。哀れに思った天使は地上に降り立ち、人々に火の使い方を教えてやった。さらに求められるままに、様々な知恵を与える。
 ここまで歌いきったところで、両足に薬を塗り終えた。本来ならばこの詩は知恵を得た人間の暴走と戦乱の世の幕開け、天使の追放といった物語に繋がるのだが、今は幸せな甘い物語だけで十分だ。この少年は余りあるほどの苦痛をうけているようにみえるのだから。
 少年は傷の痛みも忘れてルシフェルの声に聞き惚れていた。じきに本当に痛みも引いて行くだろう。
「さぁ、これでいい。この薬をイーノック、貴方様に。」
 小さな細い手を開かせて、美しい器に入ったそれを乗せた。
「何にでも良く効く薬ですので、どうぞお使い下さい。」
 少年は無表情でルシフェルの顔を暫し眺めたあと、手のひらの小瓶を見下ろした。まるでどうしたらよいかわからないといった風だ。
 見かねて少年の痩せた手を包み込み小瓶を握らせる。すると少年は己の手に重なった暖かい手を茫然と見つめていた。やがて、ルシフェルの白い手の甲に、はたり、ほとりと滴が落ちる。暖かいそれが何なのか、そんなことはすぐにわかった。
「…ふっ、う…えぇっ、」
 嗚咽。圧し殺しても圧し殺しても、溢れてしまうというような様子だ。ルシフェルが手を離すと少年は所在無さそうに顔を上げて、すがるような視線を投げてきた。美しい翡翠の淵から涙をこぼし、それがランプの灯りできらめいている。
 無意識に両手を開いて微笑むと、少年は戸惑うようすを見せた。構わず手首を捕まえて、己の方に引き寄せる。
 そして、すっぽりと包み込んでしまった。
「ルシフェル殿!」
「ルシフェルだよ。イーノック。いいじゃないか。誰も見ていない。私すらも。」
 僅かに身動ぎをしたようだが、少年はおずおずとルシフェルに抱きついた。そして、薄い胸に顔を埋めて泣き出す。その間ルシフェルは髪をすいたり、背を優しく撫でたりして、少年の涙が止まるのを待った。



 本来ならばこの逢瀬は一夜きりとなるはずだった。当然ルシフェルだってそうするつもりだったし、イーノックもルシフェルの身に危険が及ぶのを心配して強く止めたのだ。
 けれども、あの弱々しい姿で、泣きすぎた目許を赤くして『大丈夫だ、問題ない。』なんて言われた所で信じられるものではなかった。さらに言うなら、ルシフェルはイーノックをいたく気に入っていたのだ。その執着の理由は定かではなかったが。
 次の晩も、その次の夜もルシフェルは塔の頂上の牢獄に姿を見せた。一度道を覚えてしまえば、何のことはなく城までたどり着ける。鍵は掛けていったほうが、誰か訪れたと分かりにくいというイーノックの言葉もあり、器用に鍵を開けたり閉めたり繰り返した。埃の獣道を乱さぬように辿って、闇に紛れて会いに行く様などは、まるで親に許されぬ恋をした若い男女のようではないか。
「ルシフェル、何を笑っているんだ?」
 今夜もイーノックの足に薬を塗ってやりながら、ルシフェルは一人クスクスと笑いを漏らす。
「なに、奇妙な縁もあったものだな、とね。」
 本当は他人に興味の薄い己が、甲斐甲斐しく出会ったばかりの少年のもとへ通い詰めている様がおかしかったのだ。一夜一夜と重ねるたびに、距離はあっという間に縮まっていった。共にいるのはたった3日。それも夜の僅かな時間だけなのに、今では旧知の友人同士のような気軽さで会話をするまでになってきた。
「本当に。貴方に出会えて良かった。でも、このままでは貴方を危険な目に会わせてしまう。」
 答えてイーノックは翡翠の瞳に暗い色を落とした。
「私の事が心配か?なめてもらっては困るね。私はこれでも悪運が強い方なんだ。」
 ふふん、とたいして頼りがいの無さそうな薄い胸を張って見せると、イーノックが吹き出した。
 彼は見た目は幼いながら、考え方や言動はきちんとしている。頭の中身は生真面目で実直な大人である。多少世間知らずなところがあるが本を読み暮らしていたとあって、なかなか知識も豊富だった。
 本当に彼はあのイーノックなのかも知れない。だとすれば、この行為は時の権力者に逆らう事に他ならないのだろう。本来ならば面倒事にはけして手を出さないルシフェルだが、何故か今回は手を引く気にならなかった。
「どうせ私以外の人間が来るのは一日一回白昼のみなんだろ?なら、良いじゃないか。少しぐらい夜更かししたって誰も怒らないさ。」
 イーノックは本当に嬉しそうに笑う。初めて会った時の彼からは想像もできない朗らかな笑顔だった。そんな表情を見るたびに心の中で何かが嬉しげに跳ねる感覚がするのが不思議だ。
「貴方は優しい人だな。」
「外面が良いだけさ。弟にもよくしかめ面をされるよ。こんな顔をするんだよアイツは!」
 ルシフェルが白く細い指で目尻を引き上げて怒りの形相を示すと、イーノックは楽しそうにクスクスと声を漏らす。
「貴方の弟ならば、きっと美しいのだろうね。」
「まぁ、顔立ちはね。だが、アイツは堅物でいけないよ。」
 ふん、と鼻を鳴らす。
「確かに、貴方と同じよう顔で真面目な人なんて想像もつかないよ。初めて会った時の態度だって凄く違和感があったもの。」
 そうか、バレていたか、なんて呟いて二人で笑い転げる。そんな穏やかな夜が過ぎていった。ルシフェルにはこの夜がたまらなく愛しいものになりつつあった。



 北の森に人が寄らない理由はかつてここらで大流行した疫病と関わりがあるらしい。
 何十年も昔の事である。
 その当時すでに廃墟として打ち捨てられていたあの城を中心とする森は格好の死体の捨て場だったそうだ。森からは悪臭が漂い、かつて住み暮らしていた動物達も病原菌に感染し命を落とした。
 特にあの湖には連日腐り落ちた死体が浮かび、まるで地獄のようだったという。
 それ以来あの森の土は汚れ、二度と再生することのない死の森となった。森で怪我をすると、傷口から菌が入り込み、たちまちのうちに死に至るなんて話もまことしやかに騙られるほどだ。真偽は定かではないが。
 ルシフェルがこの国の首都に留まってからの日数は今まで巡ったどの都市よりも長くなっていた。故郷を除けば最長記録である。
 昼は聴衆の前で詩を歌う。或いはどこぞの貴族の元へ招かれて、請われるままに自慢の喉を鳴らす。路銀は十分過ぎるほど集まったし、いつ旅を再開してもよいのだ。ここらの伝説伝承もたいがい聞き集めただろう。
 実を言えばルシフェルには一所に長く留まれない理由がある。早く発つべきだ、その通りだと思うのに、イーノックの事を考えるとなかなか腰が上がらない。
「参ったね、本当に。」
 誰にともなく呟くと、普段なら決してつかないため息が陰鬱に唇から溢れ出た。いっそのこと浚ってしまおうか。ああ、しかしそんなことをすれば首が飛ぶかも知れないな、などと物騒な考えが脳裏をよぎった。
「よう、ルシフェル!不景気そうだな。」
 一曲歌い終えて拍手とお捻りを貰い、他の場所へと移動しようかと思案している時に、ふと声をかけられた。振り向けば、背の高い不健康な程にガリガリの男がニヤリと笑っている。
「なんだ、サリエルじゃないか。ってことはグリゴリ一座もこの町に来てるのか?」
 グリゴリ一座というのは旅の大道芸人の集団だ。セムヤザという男が率いており、ピエロや曲芸師、奇術師に獣使いと多彩な芸人を抱えている。奇抜なメンバーが多く芸風も一風変わっているものが多い。ルシフェル自身も一時はそこに世話になったし、旅先でもよく出会う腐れ縁だった。サリエルはそこで曲芸師をしている。
「ああ。暫く興行したから、そろそろ発つけどな。最近キナ臭い噂もよく聞くしよ。」
 サリエルは嫌そうな顔をして口をへの字にした。
 首都では現在同盟を結ぼうとしている隣国の話題がちらほら出ている。隣国はこの国よりもやや勢力に劣るものの、戦上手と名高い王が治める攻撃的な国だ。どうやらこの2国は手を組んで更なる国土の拡大に乗り出すらしい。標的となるのは遠く東にあるルシフェルの故郷だという。確かにあの国は、狭いながらも潤沢な資源に恵まれた土地柄だから、喉から手が出るほど欲しいというのも頷ける。
「ふっへへ…こんなに国をでかくしたのにまだ欲しがるんだな。迷惑な話だよ。」
 何処か遠い目をしているルシフェルには気づかなかったらしいサリエルはタンポポのような金の猫っ毛をパサパサかいて答えた。
「全くだぜ。俺たち根無し草にはあんまり関係ないが、どう転んでも戦が始まる。お偉いさんの考えることはわからねぇな。」
「…確かにな。隣国の統治者なんか最低だ。嗜虐趣味と少年愛の二重苦。笑えるよな、あんな屑と同盟組もうなんてお前に禁欲させようとするのより不毛だ。」
 以前、城に招かれた時のヘドが出そうな光景を思い出して微かに吐き気がした。あの時は本当に参った。不味いものでも食ったようなサリエルも、どうやら隣国の宴に招かれた事があるらしい。或いはルシフェルの言葉に気分を害したのだろうか。しかし、すぐに顔立ちに似合わない親しみやすい笑顔を浮かべる。
「それはそうと、どうせ発つなら一緒に暫く行かねぇか?皆きっと喜ぶ。この先の宿屋に泊まってるから、気が向いたら顔出せよ。」
「ああ、ありがとう。考えておくよ。」

 そうしてサリエルと別れて暫く歩いた。少し前から気付いていたが、ルシフェルを監視するような視線が追ってくる。下手くそな尾行だから撒いてしまおうとすれば簡単だが、あえてそれをしなかった。相手の正体に思い至るところがあったのだ。と、同時にこの自由奔放な生活もそろそろ切り上げ時だと頭のどこかが訴えていたこともあるかもしれない。
 暗い路地裏に入り込めば、フードを被った男が同じようについてくる。迷わずくるりと振りかえってやった。そして、皮肉を込めた笑顔で声をかける。
「久しいな。」
「…バレていたのか。」
 男は苦々しい声で答えてフードを外した。表れた目映いばかりの金髪は嫌というほど見覚えがあった。それに、顔の作りはルシフェルとだいたい同じである。
「ミカエル、お前こんな物騒な所に来て大丈夫なのか?」
 ミカエルとはルシフェルの双子の弟だ。祖国に残って真面目に働いているはずの彼が何故ここにいるのかよくわからない。
「まさか、お前自ら私を連れ戻しに来たなんて言わないだろう?今まで手下を使ってずいぶん追いかけまわしてくれたが、お前が出てくる余裕なんて今はないだろうに。」
「今回は偶然だ。だが、ここで会ったが100年目というだろう?いい加減捕まって貰おうか、兄さん。」
 ルシフェルが一所に留まれないのは祖国からの追っ手がルシフェルを探し回っているからなのだ。別に悪事を働いたわけでもないから人相描きが出回っているわけではないので、逃げおおせることは難しくない。もともと行動的な性格だから、ウロウロと気ままに世界中をさ迷うのも性に合っている。
「言い回しが古いぞ。大体お前一人でどうやって…」
 ピュイ!
 ルシフェルが呆れ顔をしたその時、ミカエルが口笛を高く鳴らした。黒い影が頭上を遮ったかと思うとミカエルの背後に着地する。筋骨隆々とした褐色の肌の男だった。白い髪が着地の時の風でふぅわりと舞っている。
 これは不味いな、と後退ろうとすれば、音もなく現れた中年の男に遮られた。長身で、渋味のある顔立ちだ。手にもった錫杖が見た目に似合わず可愛らしい装飾なのが少しだけ浮いている。
「セラフィエル、ザラキエル、兄さんを丁重に宿屋にお連れしなさい。」
「すまねぇな。これも仕事さ。」
「了解。」
 こうなっては最早降参するしか道はなかった。



「同盟の情報を集めていた。」
 宿屋で開口一番ミカエルがルシフェルに告げたのはそれだった。一国それぞれに相手をするならルシフェルの祖国が負けるはずがない。国力は豊だし、何より統治者が賢く民に愛されている。だが、同盟を組まれてしまえば、どうなるかはわかったものではないというのが実情だ。経済に勝り戦力はやや劣るこの国と戦力は有り余るほどだが豊ではない隣国は互いの不足を上手く補いあう形になる。
「私も噂には聞いていたよ。両国は祖国に攻めこもうという話らしい…もう私の我儘を許す余裕はなくなったようだな。」
 ルシフェルは自嘲気味に笑ってみせる。ミカエルは眉間に皺を寄せたまま頷いた。
「わかってくれて嬉しい。父さんも喜ぶよ。」
「ああ、その前に一つだけやり残した事がある。少しだけ時間をくれないか?」
 もはやこうなってはどうすることもできない。せめてしっかり別れだけでも告げなくてはならない。



 浮かない気分で夜更けに一人で森へ向かう。イーノックとの別れがつらい。あの縋るような顔をされてしまったら、本格的に浚ってしまうかも知れない。いや、もう浚ってしまおうか。どうせこの国は近々戦火にのまれることになるのだから。同盟交渉に失敗すれば隣国と、成功すれば祖国と戦うことになるだろう。そんな無謀で叶うはずのない願いを抱いてしまうほどにはイーノックを好いているのだ。
弟は流石に国の危機を見逃す程のちゃらんぽらんではないと思うくらいには信用してくれているらしい。単独行動を許してくれたのがその証だ。
 いつも通り城の天辺につくと、今日は中から灯りが漏れていなかった。珍しいと思って鍵を開けようとする。しかし、今日は珍しいこと続きのようで別の新しい鍵につけ替えられていた。
 何時もの倍ほど時間をかけて部屋に入る。やはり真っ暗な室内に少し驚くと、携帯用の灯りを灯した。
 ベッドの上には誰もいない。整然と並べられていた本が乱雑に散らばって、室内は嵐の後のようになっている。不安にあたりをぐるりと見回すと何かが目の端に映った。
「…イーノック?」
 石の床に蟠っている塊。大きさは人のようだけれど、死んだように動かない。嫌な予感を払拭するようにルシフェルは部屋の住人の名を呼んだ。すると、その塊が鈍く身動ぎをする。
「イーノック!!」
 駆け寄ってみるとやはりその塊はイーノックだった。助け起こすものの呼吸をするのも辛そうだ。
「…る、し、ふぇ」
「ああ、そうだ。ルシフェルだ!イーノック、しっかりしろ!どうして、こんな…」
 横抱きにしてベッドへと運ぶ間も、イーノックは苦しそうにうめき声を上げていた。ランプに灯りを移すとぼんやりした光源の中で、イーノックの惨状がより露になる。身体中にひどい傷や痣ができ、首には手で絞められたような跡がある。
 これほど身体中を痛め付けられているのに骨は折れていない。暴行の仕方を知っている人間のしたことだとすぐに分かる。紅玉の瞳が暗い怒りで燃え上がったときに、掠れた声で名を呼ばれた。
「るし、ふぇる。今夜、会えて、良かった…」
 切れた口の端から血が伝った跡がある。額からも赤黒く乾いた血が頬や髪まで汚していた。
「良かったものか!こんなことならもっと早く来るべきだった!誰にやられたんだ!!」
 激昂だ。ここまでの怒りを覚えたのは生まれて初めてだったから抑えかたがわからない。苦しい。身もだえるようだ。何故己は彼の痛みをかわり受けてやれないんだ。何故助けられなかったんだ。何故、何故と言葉にすらならない意味不明な感情が頭の中で騒ぎ立てる。
「ルシフェル…貴方が、来てくれただけで、私は嬉しい。」
 ふわり、とイーノックが微笑む。それだけなのに、ルシフェルの中の燃えたぎるような怒りはやや凪いで、少しだけ冷静にものを考えられるようになってきた。
 ようやく怪我をした時は体が熱をもってしまうものだと思い至った。
「…すまない。取り乱してしまった。少し水を飲んだ方がいい。」
 こくん、と頷いたイーノックにぎこちない笑みを向けると、懐から水の入った皮袋を取り出す。袋の口を開いて少しイーノックの口に注いでやるが、上手く飲めないようだ。
 ルシフェルは自分で水を口に含むとイーノックの唇に重ねる。驚いた様子なのを気にもせずに唇の隙間から少しずつ注いでやった。初めは戸惑っていたイーノックだったが、こく、こく、と飲み下してゆく。
 安心しきったような表情で、ルシフェルに身を任せているイーノックに胸が締め付けられる。ああ、どうして共にいられないのだろう。何故だ。わからない。
 イーノックのふっくらした唇からは血の味がする。あと、苦味走った胃液の味も。それすら愛しくて、やがて唇を合わせる行為は明確に口付けの動きに変わっていた。
 傷つけられた細い体を抱き締めて、やわやわと唇をあわせて、漸く離した頃にはイーノックは真っ赤になって瞳を潤ませていた。
「る、ルシフェル、何を…」
「嫌、だったかな?」
 己の顎をつたって溢れた水を指でぬぐう。白い指にうっすらと赤い色を帯びた。
 イーノックは首を横にふった。
「…嫌じゃない。男なのに貴方にこうされるのが嬉しいだなんて、不思議だな。私は、貴方に恋をしてしまったのかも知れない…。」
 くす、と笑いをもらしてイーノックは答えた。そして、そのまま続ける。
「本当に、貴方に出会えてよかった。これで最後になってしまうけれど、でも…」
 形は笑顔なのに、言う端から涙がボロボロ溢れてゆく。言葉の終わりはほとんど泣き声だった。
「…最後?」
 辛うじて笑顔を繕っていたイーノックの表情はルシフェルの言葉に崩壊する。痛むはずの腕をルシフェルの体にきつく巻き付け、初めて会ったあの日のように胸に顔を埋めた。ルシフェルは戸惑いながらもベッドに腰かけると、イーノックを抱き抱えるように包み込む。はだけた胸のあたりがじんわりと湿って暖かかった。
 撫でている背中もひどいもので、床の上を引きずられたのか衣服が裂けて擦りきれた傷ができている。未だに血が滲んでいて、ルシフェルの掌を赤が汚す。しかし、そんなことは構わない。今は腕の中の彼が哀れで愛しくてしょうがなかった。



 イーノックが泣き止んだ頃にはルシフェルもなかなかにひどい有様だった。イーノックが顔をうずめていた胸の部分などは、はだけたような着こなしだったので、白い肌に赤い色が塗りつけられたようになってしまった。泣きつかれただろうイーノックを再びベッドに横たえると、袖で汚れた顔を優しく清めた。
「イーノック、いったい何があったのか、私に教えてくれないか?」
 もう、祈るような声で問えば、イーノックは掠れた声で訥々と語りだした。

 始まりは白昼。扉の鍵をガタガタと開けようとする音がしたのだという。日に一度、食物を運んでくれる世話人かとも思ったが、あまりに乱暴なその様子に違和感と恐怖を覚えた。しかし、身を隠すことなんて到底出来ようはずがない。足枷がイーノックの行き場を奪っていたからだ。
 ついに扉は蹴破られ、姿を見せたのは古城に幽閉されて以来数度顔をあわせたきりの兄だった。兄は突然、隣国と同盟を組むという話を語りだしたのだ。
 隣国の王は残忍で狡猾な性質を持っていると聞いたことがあったし、イーノックの父であった先王は隣国を恐れて嫌っていた。同盟など組むふりをして、この国を支配しようという目論見があったとしたら。
 イーノックは無理を承知で兄に訴えたのだが、やはりそれが兄の勘に障ったらしかった。このようなことは幾度かあったから、次に何が起こるかなんて予想も容易についた。
 案の定、憤怒と嫌悪の眼差しで睨まれたと思った次の瞬間には硬い床に引き摺り落とされ、幾度も殴打を繰り返された。そのあとの記憶は曖昧で、随分長い間、覚醒と失神を繰り返していたように思う。
 腫れ上がって擦りきれた拳を兄が漸くおさめた頃には、イーノックの軟弱な体はもう言うことを聞かなかった。悲鳴を上げることすらできない彼に兄は吐き捨てるように言った。
 お前を隣国の王への同盟の証として人質にする。明日の夜、貴様を迎えにくる。
 イーノックの視界は絶望と痛みに塗り潰されていった。

 そして、今に至るわけである。

 ふぅ、と疲れたように息をついたイーノックの瞳には涙も怒りも浮かんではいなかった。全て諦めて受け入れる。あの翡翠色はそんな濁った色へと変わっている。
「おかしな話だな。兄は未だに私が見た目通りの15、6の子供だと思っているんだ。こんな風に幽閉されて世間の誰も知らないような人間は人質の役目を果たさないなんて、簡単にわかるのに。そういえば、貴方だってそうだ。人に火を与えた天使の話の結末なんて、私はとうに知っているのに大人ぶって隠すんだもの。」
 イーノックが空虚に笑った。彼は人質などにはされない。特殊な性的嗜好を持つ隣国の王へ玩具として捨てられるのである。
 ルシフェルが愕然としていると、イーノックはルシフェルの頬に骨っぽい手を当てる。
「泣かないで、吟遊詩人殿。最後に見る貴方の顔が泣き顔なんて私は嫌だ。」
 言われて初めて己が泣いていた事に気付いた。その小麦色の手に手を重ねると、瞳を閉じた。一旦息を吐ききって思いきり吸い込む。
 再び開いた紅玉は、凛と冴え渡るような鋭い光を宿した。
「これで最後になどさせない。イーノック、お前をもう一人にはさせない。」
 その声は今まで歌ったどの英雄詩よりも力強い響きを帯びていた。

 時間があまりない。期限は明日の夜。それまでにルシフェルは、城に幽閉された天使を浚うのだ。

 ガタガターンと扉が外れて雪崩れ込んできたミカエルの手下二人にやや出端を挫かれはしたが、ルシフェルの戦いは幕を切って落とされた。



 先ほどの筋骨隆々の大男、セラフィエルにミカエルの元へと報告に戻って貰う。ついでに、ミカエルへの手紙と指示書も持たせた。先ほどまで夢物語だった計画を成功させるには、弟の協力がなくてはならないのだ。
 イーノックの元にはもう一人の手下、レミエルに残って貰う。流石にミカエルが仕事を任せているだけあり、若いながらなかなか芯のありそうな青年だ。医学の知識のあるという彼ならば、手当を任せても大丈夫だろう。

 そして、現在ルシフェルはセムヤザ率いるグリゴリ一座の元だった。
「なるほど。面白そうじゃないか。しかし…」
 セムヤザは輝くライトグリーンの瞳を輝かせる。穏やかな笑顔を浮かべているが、この男はなかなかに油断がならない。
「君がまさか、恋の一つでこんなに必死になるなんてね。頭を下げて人にものを頼む君なんて想像もできなかったのに。面白いものも見せてもらったし、無碍には断れないね。」
 クスリと笑われて、些か苦々しい表情を浮かべたルシフェルだったが、素直に礼を述べる。
「セムヤザ、感謝する。一座を巻き込むのは本意ではないが、私一人で成せる事など何もない。どうか宜しく頼む。」
 その時のセムヤザの顔といったら、天地がひっくり返るとでも言うようなものだった。サリエルがここにいたら卒倒しているかも知れない。 



 グリゴリ一座のアザゼル、バラケルを借り受け、急ぎ城へととって返す。アザゼルは黒髪の神経質そうな顔立ちの男で、カラクリに対する造形が深い。一座の興行では謎のカラクリで派手な芸を見せたり、舞台装置を拵えたりしている。バラケルはガッチリした体格の男で、建築に関する知識が豊富だ。厳めしく何処か野暮ったい顔立ちだったが、その知識と技術は本物だ。三人は様々な道具と共に階段をかけ上がった。
 頂上まで上がったのはアザゼルとルシフェルの二人きり。バラケルは建物の中をざっと見回って構造を下見してもらう。
「イーノック!」
 開口一番に名前を呼べば、ベッドの上でイーノックが微笑んでいた。身体中に、包帯を巻かれた痛々しい姿ではあったが、先ほどの傷口を剥き出したままの状態よりはいくらか良い。
「ルシフェル、貰った薬をほとんど使いきってしまった。折角大切にしていたのに。」
 申し訳なさそうな顔をするイーノックは、体調も良さそうだ。
「大丈夫だよ、イーノックさん。アレ、ルシフェルさんとかミカエル様の故郷だと普通に何処の家にも置いてる薬だからさ。」
 すっかり打ち解けた様子のイーノックとレミエルだ。
「ありがとう、レミエル。貴方は手当てが上手なんだな。ルシフェルが薬を塗ってくれたときより痛くなかった。」
 イーノックが言えば、レミエルがイーノックの腕を持ち上げてクルクルと包帯を巻いて行く。心なしか表情が誇らしげだ。
「良かった、顔色も良くなったな。」
 少し面白くなかったが、ルシフェルは大股で歩み寄ってイーノックの頬に触れる。口の端は薬を塗られてやや赤みも引いていた。ぽっと紅くなった頬が愛しくて、思わず唇を近づけたとき、背後で咳払いが響く。
「いちゃつくのは仕事の後にしてくれないか?」
 アザゼルが気難しく眉を寄せた。彼は油を塗り込めた太い紐を部屋中に張り巡らせている。呆れたように溜息をつくと作業を再開した。ふとルシフェルが目を向けると間近で二人を見ていたレミエルが茹で蛸のように真っ赤になっていた。
 思わず舌打ちしそうになりながら、ルシフェルは小型ののこぎりのような道具を取り出す。鉄も引き切ることのできる鋭い歯がランプの明かりできらめいた。イーノックに触れるのはもう少し我慢だ。致し方ない、時間は決して止まらないのだから。
「そうだな。そちらも抜かりなく頼むよ。」
 言ってイーノックの足枷に刃を当てた。

 枷が外れて地に落ちるのとバラケルが部屋に到着したのとほぼ同時だった。彼はルシフェルが伝承の調査中に手にいれた古城の図面を握っている。
「この図面は半分正解、半分不正解って精度だな。所々直してきたから取りあえずは使えるぞ。」
 丸い瞳をキラリと光らせるバラケルに、アザゼルが駆け寄る。
「でかした、バラケル!次は仕掛けをどうするかだな。何処か脆弱な部分はないのか?」
 二人は悪戯を仕掛ける子供のように年甲斐のない表情で何やら話し合っていた。
「では、あとは頼む。仕掛けが終わったら宿屋で落ち合おう!さぁ、イーノック、レミエル。私達はグリゴリ一座に合流だ。」
 アザゼル、バラケルの二人は請け負った、と胸を張ってにやにやと楽しそうだ。グリゴリ一座にはもともとこう言う気質の者が多い。退屈が嫌いで、なにかしらスリルあふれる楽しみを毎度のように探しているのだ。
 イーノックはふらつく足で立ち上がると、ヨロヨロと頭を下げた。緩慢な動作ではあったが、ルシフェルが支えなければ倒れてしまっただろう。
「ありがとう、皆さん。この恩は、いつか必ず。」
 決意を秘めた翡翠の瞳を眩しそうに見つめて二人の男は笑った。
「「期待しないで待ってるよ!」」



 宿屋ではエゼキエルという女性が、アルマロスという少年に服を着せ、あれこれ指示を出しながら、布を縫い合わせていた。
「ちょっと後を向いてくれるかしら?あ、ちょっと形が悪いわね。」
「そんなの適当でいいでしょ?僕、疲れたよぅ。」
 エゼキエルは一座唯一の女性で、獣を使った芸をする。このように衣装作りも彼女の得意とすることだった。褐色の肌の若い女性だが、世話焼きの母親のような雰囲気が既に漂っている。今も親しみやすい砕けた笑顔をアルマロスに向けている。
「あと少しだからお願いよ。ちゃんと作らないとこれを着る子が可哀想でしょう?」
 アルマロスは濃い褐色の肌と白い長髪の少年だ。年の頃はイーノックの見た目とだいたい同じ程だろう。もともと優しい気質のアルマロスだから、そう言われてしまえば文句も言えない。舞台でダンスを披露するときは矢張きちんとした衣装でいたいものだと常々思っていたからだ。
「どんな子なのかな、イーノックって。」
 アルマロス以外、この一座に子どもと呼べる年齢のものはいない。それゆえ自然と興味がわくのだ。
「うーん、ルシフェルはいい子だって言ってたけれど。あの人、適当だからねぇ…。」
 正しくは「まぁ、いいやつだよ。」である。そして、アルマロスがイーノックに興味をもつ理由がもう一つ。
「エゼキエル、イーノックって男なんだよね?これ、なんでスカートなの?」
「ええっ!?あら、やだわ。思わずスカートにしちゃった。でも、せっかく可愛いくできたからこれでも良いわよね?」
 どんなにしっかりした作りの衣装でも、この服ではその子は可哀想である。アルマロスはもぞもぞと着なれない少女用の衣装を脱いだ。
「エゼキエル!万事抜かりないか!?」
 バァン!と安宿の戸が開く。珍しく息を切らせたルシフェルが崩れ落ちた。
「しっ!静に!」
 ほとんど一座で埋まってしまった宿屋とはいえ、時間は深夜なのだ。下手を打てば店主が殴り込みに来てしまう。駆け込んできたのはルシフェルと生意気そうな青年、あとは粗末な引きちぎれたような服装の傷だらけの少年だった。
 エゼキエルの懸念を気にする余裕もないらしいルシフェルは膝をついて肩で息をしていた。何か言っているが、ほとんど言葉になっていない。いつも丁寧に形作られた髪は、ペッタリと寝てしまっている。
 細身で色白生意気そうな青年はゼェゼェと息をつきながら悪態をついている。少し癖のある短い髪が汗の湿気でよりうねくっていた。
 ルシフェルに横抱きにされていた少年はヨロヨロと覚束なく立つと転ばぬようにゆっくりと頭を下げる。疲労を滲ませながらも気丈に笑顔を見せた。
「はじめまして。私はイーノックと申します。」
 幼い見た目に似合わないしっかりとした挨拶と存外大人びた表情に、アルマロスもエゼキエルも一瞬目を瞬かせる。しかし、すぐに人懐こく笑うとイーノックの手をとって支えた。
「宜しく、イーノック。僕、アルマロス。」
「私はエゼキエルよ。挨拶もソコソコにしないと朝になっちゃう!さぁ、じゃあ先ずは着替えね!」
 エゼキエルがパァンと手を打つ。
 そのキラキラとした瞳は、新しいお人形に喜ぶ女児に近い。手にはフワフワとフリルが沢山ついた布の塊を握っている。
「え、え?」
「…エゼキエル、お前まさか…」
 イーノックが怯えたような顔をし、ルシフェルが怪訝そうにエゼキエルを睨む。当の本人はペラリとワンピース形の衣装を翻した。
「えへ、間違えちゃいました☆でも、すっごく似合いそう!本当に可愛いのね。ちょっと意外だわ?」
 と悪びれた様子一つなかった。
 時間は夜明けの少し前。急がなければならない。首都からこの国の東の国境まで行くには朝日と同時に出立しなければならないのだから。


 夕日が沈みかける頃、国境の関に大きな荷馬車に乗った旅の芸人一座が通りがかった。御者台には不健康そうな長身の男と、まだ幼さの残る顔立ちの若い男が乗っている。
「もう夜が来る。関の近くで朝を待ったほうが良いのでは?」
 若い門兵が通行手形を確認しながら言う。しかし、座長だという若い男は聞く耳を持たないようだった。
「実は、3日後にこの先の国で大きな祭りがあるんですよ。そこらで一つ稼がせて貰おうかと想いましてね。」
 ライトグリーンの爛々と輝く瞳の座長は門兵の掌から手形を受けとる。
「ああ。だが、荷は改めさせてもらう。」
「はい。ご自由に。」
 どうせ旅芸人の荷物など用途も用法も不明な物が多く、改めたところでほとんど意味もないのだが。
 門兵が荷馬車の幌の入り口を捲ると、派手な衣装の芸人が思い思いに腰をおろしていた。壁際にはぎっしりと布やら木材やらがはみ出した箱がある。他には子豚が数ひき喧しく鳴いている檻など、やはり意味不明なものばかり。
 諦めて今度は一人一人の人相を改めた。美醜様々な男。女が一人。少年、少女が一人づつ。門兵は少女を見て思わず眉を潜めた。
「これは…」
 その少女はフリルを沢山つけた可愛らしい衣装に身を包んでいた。しかし、ほぼ全身に包帯を巻き付けられ、顔や手の甲なども青黒い痣で覆われている。見られているのがわかったのか、少女は怯えた様子でみじろいだ。
「ろっと、なんだ。こいつが気になるのか?」
 少女の側に座る男が、ふっへへ、と間抜けな声で笑った。一際目を引く白磁の肌と、赤い瞳を持つ男だ。だらしなく乱れた格好だが、それが妙に似合って見える。
「こいつは私の玩具だよ。なぁ…」
 男はべたついた低い声をあげ、少女の体を乱暴に抱き寄せる。突如、ほっそりした首筋に強く噛みついた。よく見れば少女の首には絞められたようなアザがある。
「っ、っ!」
 少女が端の切れている唇を噛み締めて、声を上げまいと堪えていた。男が口を離すと、小麦色の肌にもはっきりわかるほどの噛み跡が残る。
「いいだろう?」
 男が悪魔のように微笑んだ。ギラリと光る眼には狂気的な色がにじむ。門兵は汚らわしい物を見る目で男を睨み付けたが、意に介さない様子で今度は少女の耳に噛みついていた。
 眉根を寄せて馬車から降りた門兵に、長身の男が困ったように笑いかける。
「とんでもないモノをお見せしちまいましたね。アイツは昔からああなんです。ちょっと頭がおかしくてね。勘弁してやって下さい。」
 座長も、穏やかな笑顔を向けてくるが、それに上手く返せる余裕は門兵にはない。
 そんな男を仲間としているコイツらの感覚がわからない。門兵に言わせれば、皆一様に気違いにしか見えない。
 特に人相書きに引っ掛かるような者もいなかった。面倒事に巻き込まれるのはごめんだ、とっととコイツらを追い出してしまいたいと門兵は東の国境の門を開いた。



 日が暮れたのとほぼ時を同じくして、北の森の古城が燃え上がった。   
 初めは尖塔の最上部から火の手が上がり、城全体をなめ尽くすように炎が広がる。
 一夜にして天使を捕らえた呪われし森の古城は瓦礫と灰に姿を変えたのだった。



「だから、離れろオッサン!手当できねぇだろ!」
「うるさい!このヘボ!だいたい、オッサンってなんだオッサンって!お前、ミカエルにもオッサンとか言うのか!」
 ギャアギャアと喧しい声に、馬車の中は大騒ぎだった。ガタガタ進む車輪の音すら紛れるほどである。声の主はレミエルとルシフェル。さっきルシフェルがイーノックにつけた傷を手当しようとするレミエルと引っ付いてはなれないルシフェルの攻防戦である。
 アザゼルを初めとするものたちは耳に指を突っ込んで騒音を防いでいた。エゼキエルは二人の間に挟まれているイーノックの鼓膜を本気で心配している。
「あの人にそんな恐ろしい事言えるわけないだろ!」
 レミエルが真っ青な顔をして声を上げる。幼い頃から共に暮らした弟は、どうやらルシフェルのいない間にずいぶん様変わりしたらしい。
 オマケにかつてはあんなに慕ってくれていた兄を今や全く信用していないようである。こんな監視までつけられてたまったものではない。まぁ、イーノックの手当を任せられるからありがたさも多少はあるが。
「…なんか、余計に帰りたくなくなってきたよ。」
 ルシフェルは何処か遠い目をしている。
「ふざけたこと言わないでくれよ!なんの為に俺がここまで…」
「あ、ちょっとレミエルさん、しっ!」
 悲鳴に近いレミエルの声は、アルマロスに遮られた。アルマロスはルシフェルに抱きつかれたままのイーノックを示す。
「「…」」
 イーノックはルシフェルの腕の中で静かに寝息をたてていた。この騒音をものともしないおおらかさはたいしたものだ。怪我と心労があったにせよ、イーノックはなかなかの大物かもしれない。
 ルシフェルはまるきり幼子のようなあどけない寝顔に表情を緩めると、苦しくない体勢で抱き直す。蜂蜜色の髪に指を通して、愛しくて堪らないように口付けた。
 その光景に、一瞬しんとしていた馬車の中が再び色めきたったのだった。



 夜が再び明ける頃になって、一座の荷馬車は東の国と南側にある海沿いの国との岐路に達した。東側へ向かう道の端に、小振りながら機動性の良さそうな馬車が止まっている。
 一座の荷馬車は分かれ目で一端停止した。
 幌の布を捲って、ルシフェルは荷馬車を降りた。もちろん胸には、未だに眠り続けているイーノックを抱いている。後に続いてレミエルが飛び降りた。
「悪かったな、セムヤザ、サリエル。ここまでありがとう。」
 ルシフェルは己のポケットを片手で器用に探る。言われた二人はやや寂しげな様子だ。
「気にするなよ、ルシフェル。っと、また会えるじゃねーかって訳にはいかねぇもんな。」
 ははは、とサリエルが頬をかく。
「君の詩がもう聞けないのは残念だよ。」
 セムヤザも複雑そうだ。ようやっと目的のものを探し当てて、ルシフェルはセムヤザの手に落とす。
 ぎっしりと金貨が詰まった布袋だった。
「ルシフェル?」
「路銀の足しにしてくれ。あと、衣装代と馬車賃、手間賃かな?まぁ、なんでもいい。私にはこんな事しかできないから受け取ってくれよ。」
 そして、ルシフェルは東の道へと歩き出す。グリゴリ一座の荷馬車は、南側に馬の鼻を向けた。ゴトリ、ゴトリ、と車輪の音が遠くなる。
 ルシフェルにとってその音は、まるで今まで歩んだ自由な旅路との別れのような気がした。
 ルシフェルの足は東側の道に止まる馬車に向けられていた。きっと中にはミカエルが眉間にしわを寄せて待っていることだろう。



 あれから数年。場所は東の王国の宮殿である。
 やわらかな日差しの射す部屋で青年が一人、静かに手紙を読んでいる。がっしりとした体格の、小麦色の肌をした青年である。優しげな表情で文字を追う翡翠の瞳は金のまつ毛に縁取られ、緩やかに弧を描く唇はふっくらとやわらかそうだ。
 突如、部屋の戸がノックされ、一人の美男子が駆け込んできた。
「イーノック!兄さんはどうしたんだ?執務もなにもほっぽりだして!」
 悲痛な第二王子、ミカエルの声にイーノックは苦笑するしかない。まるで、兄ルシフェルがこの部屋にいることが当たり前のような口ぶりである。本来ならば一介の書記官の自室に王のあとを継ぐべくして生まれてきた第一皇子が入り浸るなんてことはあり得ないのだが、実際ルシフェルは暇さえあればこの部屋を訪れるのだ。本格的に入り浸っている。
疲れた表情のミカエルに椅子をすすめながら、年齢相応の姿に成長したイーノックは手紙を文机にしまった。
第一王子のルシフェルが戻ってからというもの、生真面目なミカエルの心労は減るばかりか増える一方だ。ルシフェルは自由の利かない雁字搦めの王族としての人生に嫌気がさして、数年間行方をくらませていた時期がある。当時は必死に探していたミカエルだったが、連れ戻してみたら奔放すぎる兄に手を焼いているというのが現状である。
 ちなみに当のルシフェルは今、城下で詩の一つも歌っている所だろう。最近書き上げたという、古城の黄金の天使の詩がとても好評だと、子どものように喜んでいた。
「そんなに嘆かないで、ミカエル。ルシフェルの分も、今日は私が手伝うから。」
 イーノックは東の王国で書記官として働いている。ルシフェルの口添えも大きかったが、何よりイーノックの素直な気質を気に入った王が取り立ててくれたのだ。
 イーノックの体はこの数年で見違えるほど逞しく成長した。まるで、体が遅れを必死に取り戻そうとするようだったと思う。細く、歩くのにも不便そうだった手足はがっしりとして頑丈になり、体は厚みを増して、少女にすら見えた線の細さは消えている。しかし、美しく輝く翡翠の瞳や甘やかな蜂蜜色の髪はそのままだ。顔立ちは大人びたものの、花の咲いたような朗らかで柔らかい笑顔は相変わらずだった。
 ミカエルは何処かぐったりした様子で、イーノックの言葉に涙ぐんだ。
「ありがとう、イーノック。君がいなければ、私の胃には確実に穴があいていたろうね…」
 口から漏れる彼の笑いはひどく乾いていた。
イーノックの働きぶりは目を見張るものがある。今や、古参の家臣の信頼も厚い。さらに、イーノックは扱いにくい第一王子の扱いが非常に上手いのだ。
 というか、第一王子がイーノックにベタ惚れしているのだ。結局のところ惚れた方が負けと言う通り、流石のルシフェルも彼には逆らえない。家臣達はイーノックに泣きつくことで、なんとかルシフェルの手綱を握っているという状態だ。もう、いっそのこと手綱を手放してしまいたいと思ったことは数えきれないが、ルシフェルの有能さはミカエルに引けを取らない。正直いなくなられても困るし、敵に回られれば非常に厄介だ。それゆえ、イーノックという存在は東の王国にとってなくてはならないものになりつつある。困っている者を放っておけない質のイーノックは、家臣たちの苦言を間違いなくルシフェルに届けてくれるし王を除けば彼を説教できる数少ない人間なのだ。



 古城が燃えたあとで、あの国の首都には不穏な噂が飛び交った。
 かつて疫病で汚染された土が火事で乾いて舞い上がっていると言うのである。そして、その土を吸い込めば再び疫病にかかる者が出るだろうと。
 伝承に残る疫病の威力は凄まじい。感染力もさることながら、致死率も高い、死の病だった。有効な薬は当時より見つかることはなく、その地域のほとんどの人間が死に絶えるという方法で終息に向かっていった流行り病だったと聞く。
 病に恐れをなした隣国との同盟は決裂ではなく結局白紙に戻り、数年たった現在でも2国の交流は断絶しているらしい。戦争らしい戦争もなく、今でも平穏な状態が続いている。

 ミカエルの部下たちは実に有能な働きぶりで、ルシフェルの用意した指示書通りの真っ赤な嘘をもっともらしく漏洩させてくれた。一連の騒動の一番の功労者はミカエルの部下たちかもしれない。

 イーノックはミカエルに慈母のような眼差しを向けると山のような書類を受け取った。
 愛しの吟遊詩人は、今頃城下で喝采の拍手を浴びている事だろう。城に帰ればすぐに、ありったけの語彙を尽くして本日起きた出来事と、甘くとろけるような睦言を聞かせてくれるのだろう。きっと頼めば、もったいぶったふりをして詩の一つも歌ってくれるに違いない。
「本当に、貴方に出会えてよかった。」
 両手からあふれてしまうほどの幸せを得られるなど、城に幽閉されていたころの自分は想いもしなかった。誰でもない、紅玉の瞳を持つ男に呟いて、イーノックは仕事に取り掛かる。
 文机の中の手紙の差出人はグリゴリ一座。今度東の国を訪れる旨が記載されている。招待状も入っていた。
『ルシフェルに出すより、君に出した方が確実に届くと思う。』
 そんな書き出しの手紙を見たとき、きっとルシフェルは子供のように不機嫌な顔をして見せるのだろう。その光景を思い浮かべて、イーノックは微かに口元を緩めた。
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